とうとう葬儀当日となりました。
天気は雪がちらついていましたが、おおむね曇りだったと記憶しています。
葬儀屋さんには親戚や地元の人、会社からと上司からの華、盛り篭が届いていました。
立派な出棺になって本当に良かったと思います。
写真を撮っておけば良かった。
葬儀屋さんで写真を撮りまくるとか、ちょっと不謹慎かなと思って、つい、遠慮してしまったわけですが。
出棺に来てくれた人たちで、棺の中にいる親父に足袋、草履、脚絆、小手を付けて白装束を着せ、道中おなかが空かないようにお米を、三途の川を渡るときの渡り賃として六文銭を、親父のまわりをたくさんの花で埋め尽くして、生前使っていた眼鏡やメモ帳を持たせました。
どんどん別れの時が近づいていると思うと本当に切ない、寂しい気持ちで崩れそうでした。
それでも、喪主である以上、すべてを先頭でこなさなければならないので辛い役目です。
棺を霊柩車に乗せ、喪主が同乗して火葬場に行きます。
この数日で急に雪が積もったので、道は結構凸凹でした。
最後に乗る車がこんなに乗り心地が悪くて、親父にはちょっと申し訳ない気持ちでした。
そして、祖父が亡くなってから数十年ぶりに尾花沢の火葬場に来ました。
建て替えられて、当時の掘っ立て小屋のような設備ではなくなっています。
火葬場はその日の予定が決められているので、次々こなす感じで進みます。
うちはちょうど昼に跨るような時間だったと記憶しています。11時くらいからだったでしょうか。
時間になり、お経をあげてもらい、いよいよです。
棺の窓を閉めるとき、最後に親父の顔を撫でました。これが本当に親父に触れる最後なんだとかみしめました。
この火葬場の何が辛いって、棺を炉に入れてから、炉の扉を閉じるボタンを押すのが喪主なんです。
自らが故人の亡骸との別れの瞬間を決めるというか、ボタンを押したら、次に会うときはもうお骨なんですよ。
知っている親父の形ではなくなってしまってるんです。
本心では押したくないんですが、押すのが喪主の役目なので、泣きながらボタンを押しました。
90分くらい待ったと思います。
時間になって、お骨になった親父が炉から出てきました。
親父は170cmも無い、小柄で痩せた人でしたが、より小さい骨になってしまったんですね。
眼鏡はフレームが蒸発して跡になっていて、きっと向こうに持って行ったんでしょう。
本当に死んでも魂が残るのであれば、どこかから見ていてくれるのかな?と思ったりもしました。
自分が火葬されるところや、葬式を上げられているところを宙に浮いて見ているような、そんなふうに魂が体を離れて別の世界で生きてくれているならどれだけ自分の気持ちが安らぐものかと思います。
お骨を持って、葬儀を執り行う菩提寺の本堂に向かいました。
山形新聞のおくやみ欄に載せたので、地元の人や親戚以外でも、かつてシルバーで働いていた老人ホームや、同級生の方も来ていただきました。社交的な性格ではなかったので、知り合いは本当に限られていましたが、穏やかな人だったので、誰かに嫌われていることはなかったはずです。
葬儀の段取りを葬儀屋さんから聞き、一応その通りにしたつもりではいましたが、所々でお辞儀し忘れてしまって、後で親戚の人から注意されてしまいました。よくわからないときは過剰にお辞儀しておいた方がいいんでしょうね。
葬儀と初七日を一緒に行ったので、お経は二巡する感じです。
葬儀は午後2時半とか3時に終わったと思います。
東京から来て、直接葬儀屋さんで寝泊まりしていたので、ようやく実家に行けます。
途中、警察署に寄って、親父が無くなったときに近くにあったらしい財布が入ったバッグを受け取って行きました。
記憶に不安があるからか、結構な額の現金を持ち歩いていたみたいです。小銭を使うことも無なかったのか、小銭入れにはおつりでいっぱいです。認知症の人の典型ですね。
実家に帰ると、親父が亡くなった時のままではなく、居間はある程度は片づけられていました。
それでも、1か月前に来たときよりも散らかっていて、普段の生活ぶりが想像できました。
決して楽な環境ではなかったと思いますが、自分にはこの生活が合ってたんでしょうね。
人付き合いも最低限でいいし、お金には困っていないので、自分が食べていくための最低限のことだけやって。
家族は天童のホテルに泊まって明日帰りますが、私と叔母はしばらく家の後片付けがあるので実家に泊まります。
何日滞在するかも決めていないし、ここに居る間に何ができるかもわかっていません。
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