父が永眠しました

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実際にこの日記を書いているのは2023年の4月です。
1年5ヶ月経っても全然気持ちは整理できていなくて、今でも父のことを思うと涙が止まらなくなります。
それでも、このブログは自分の日記替わりなので、この大きな出来事は記憶がはっきりしているうちに書き記しておこうと思いました。

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この記事の直前では、月末に父を物忘れ外来に連れていく予定で、あと1週間すれば会えるというタイミングでした。
当日、日付が変わって18日になってからだいぶ夜更かしして床に就いたんですが、2時ごろ妻にたたき起こされました。
地元の救急隊からの電話で、既に父が心肺停止状態という連絡でした。
とにかく始発が動き出さないことには行動に移れないので、大急ぎで山形に向かう準備をして、東京発6時半のつばさで向かいました。通常、自宅で亡くなった場合は事件の疑いがあるため、検視などの処理があったりして死亡の診断が複雑になるわけですが、救急隊の配慮があって東根の公立病院まで運んでもらえたことで、死亡診断は滞りなく行われました。
病院側は付き添いの親族が必要ということでしたが、深夜1時ごろのことだったので連絡できる親戚もいない中、東根にいる祖母方の親戚(父の従妹)の方が病院に向かってもらえることになり、私が10時過ぎに東根に着くまで付き添ってもらえました。

新型コロナの感染者がかなり減った期間でしたが、だいぶ待たされてから霊安室に案内され、冷たくなった父とようやく会うことができました。1か月前は元気だったのに、大した話をしたわけでもなく「また来月会えるから」っていう気持ちで駅のホームで見送る父を車窓から見ていましたが、生きていた父を見たのはそれが最後になりました。
軽く認知症の症状が出ていたのでちゃんと家に帰ったか心配でしたが、山形駅から実家の居間のカメラを見たら、いつものように一人で晩酌しながらテレビを見ていたので安心しました。記憶力はちょっと心配でしたが、体に問題があるとは思っていなかったので、突然こんな日が来るとは信じられませんでした。

先生の診断では肺血栓塞栓症とのことでした。大きな血栓が詰まることで呼吸できなくなって一瞬で命が奪われるそうです。恐らく、血をサラサラにする薬は処方されていたと思うんですが、ちゃんと飲んでたのかな。そういうことをしっかり気にしてておくべきでした。
救急隊の方から聞いたところでは、夜中の1時頃に本人から電話で気分が悪くなったと119番があったそうです。体の異変に気付いて、それも、自力ではどうにもできない状態だということだったんでしょう。最後までしっかりしてたんだなと感心させられます。
それでも、もはやどうにもならない症状だったわけですね。
苦しむ間も与えられないまますぐに亡くなったはずだと聞きました。医者だとしても、自分の親がこの先肺血栓塞栓症で死ぬかどうかの判断はできないそうです。この言葉で気持ちが楽になったりはしませんでしたが、長く苦しまなかったであろうことだけは良かったと思います。

その後、親戚の同級生が営んでいる葬儀屋さん「やなぎや」さんに父を運んでいただきました。
父が互助会に入っていたかどうかはわかりませんでしたが(入っていなかったそうです)、たまたまそういう繋がりがあったおかげで滞りなく進めることができましたが、どちらかというと、私自身よりは家族だったり親戚、近所の人は突然のこと過ぎて大変だったと思います。特に妻は、子供2人を連れて1人で雪の山形に車を運転してこなければならないので、冬タイヤの手配から全部1日で片づけるのは大変だったはずです。なにぶん、葬儀は12/20というのが決まってしまっていたので。

父を亡くした悲しみでいっぱいでしたが、お世話になった親戚の方々、死亡や葬儀に際しての様々な手続きや決め事が次々やってくるので、喪主は泣いている暇も与えられないんだなと実感させられます。
この日はあいにくの雪で、それも結構積もっていました。普段はほとんど雪が積もらない東根でも珍しい積雪です。そんな悪天候の中、私自身では連絡を取ったこともない菩提寺の住職さんに電話して枕経をあげてもらったり、親戚の方や部落の方からの供物や花の大きさや順番の話や、知らないことだらけな上に地域独自のルールがあったりして、ホントに大変でした。正直、終わってしまうと、自分が何をしたかまでは殆ど覚えていません。幸い、今のところ今後喪主をやる予定はないので、忘れてしまってもいいわけですが。

岐阜から父の姉(叔母)と、叔母に付き添って名古屋から従弟が来てくれました。従弟と会うのも何十年ぶりかで、酒を控えているという従弟と一升瓶を開ける勢いで飲みました。何度も何度も、父のそばにいって打覆いを取って顔を眺めたりなでたりして、父の体がこの世から無くなってしまうまでの残された時間を惜しみました。
寡黙な人で、正直親子の会話は少なかったと思います。
もっと話しておけばよかったという後悔しかありません。
本人も、自分でどうにもできない具合の悪さを助けてほしくて救急車を呼んだので、81歳で死んでしまうつもりもなかったはずです。そばに居てあげさえすれば、助けることができたのかもしれません。

没後1年4か月が経ち、ある程度落ち着いたかと思っていましたが、淡々と文字にできるほどひとつの過去のできごととしては扱えません。親が先に逝くのは当然という単純な話では片づけられませんし、人生でこれ以上に辛い出来事はありません。

そんな気持ちから、日記を書くのをやめていました。